
第2章:ニューミュージックから小室哲哉へ
― 日本語ポップスが「世界の音」に接続した瞬間 ―
1970年代後半、フォークやロックの潮流の中から「ニューミュージック」と呼ばれる新しい音楽が登場した。それは歌謡曲からの自立であり、作詞・作曲・演奏・表現を自ら行うアーティストたちによる“音楽の再定義”だった。
1.1980年代 ― テクノとニューミュージックの融合期
1980年、日本ではYMO(イエロー・マジック・オーケストラ)が登場し、電子音楽がポップスの中に溶け込み始めた。一方で、松任谷由実や山下達郎、大滝詠一といったシンガーソングライターが、都会的で洗練された“ニュー・ポップ”を作り出していった。
こで初めて、日本語ポップスが欧米のサウンドに並ぶ音楽的完成度を持ち始める。この流れの延長線上に、小室哲哉が登場する。
2.小室哲哉の登場 ― 欧米的サウンドを日本語に翻訳した男
小室哲哉は、1980年代の終わりから90年代にかけて、日本の音楽シーンを一気に欧米化させた。彼のサウンドは、シンセサイザーと打ち込みによる構築美、そして英語的なリズム感を持ちながらも、日本語の情感を失わない絶妙なバランスにあった。
TKサウンドはハウス、ユーロビート、トランスなど世界のクラブミュージックの要素を吸収しつつ、それを“日本語の歌謡感覚”の上で成立させた。これは日本人が初めて“世界の音”を自分たちの文法で再構成した試みだった。
3.小室哲哉の方向性 ― 音と感情の間に橋を架ける
小室の音楽は、秋元康のように物語で聴かせるのではなく、サウンドそのものに感情を込める方向性を持っていた。それは歌謡曲的な“涙”ではなく、リズムとサウンドで情緒を表現する新しいポップスだった。
安室奈美恵、globe、TRF、華原朋美…。彼がプロデュースしたアーティストたちは、音で“時代の空気”を語る存在になった。そのスタイルは、後の中田ヤスタカや米津玄師へと受け継がれていく。
4.ニューミュージックからプロデュース時代へ
ニューミュージックが個人の表現を追求したのに対し、小室哲哉は個人の才能を産業の中で再構成することに成功した。
つまり、音楽産業をアートとして成立させた初のプロデューサーである。
小室以降、J-POPは歌謡曲の“物語”から、サウンドによる“体験”へと重心を移していく。この流れが2000年代のクラブカルチャーに接続し、中田ヤスタカや渋谷系、さらにボーカロイド文化へと発展していくことになる。
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